参考文献紹介第8回は、大木市蔵氏が執筆し、昭和8年(1933年)に西ケ原刊行会より発刊された「実用豚肉加工法」です。
この文献は、第1次大戦前、東京帝国大学農学部関係の学生さん達により組織されていた駒場畜産研究会という団体があり、実習については豚の解剖の権威、東京大学名誉教授、農学博士の田中宏氏が、加工の実際については業界の先覚者として大木市蔵氏がそれぞれ指導していました。昭和8年、東京帝国大学助教授、佐々木林治郎氏が中心となり、田中氏と市蔵氏の講術をまとめて出版され、業界に多大の貢献をしたとされる文献です。
発行年第7話よりだいぶ飛びますが、この参考文献の紹介シリーズも大正時代からソーセージがどのように普及していったかの部分に入っていきますので、市蔵氏が食肉加工業の沿革について記述した部分を取り上げさせていただきます。
日本に於ける豚肉加工業の沿革(P64~)
「日本に於ける豚肉加工業の沿革を一言したいが、私(大木)は学者でないから、或いは粗漏な点があるかも知れぬ。唯知っている範囲を述べて見る。
先づ斯業(※1)の発達には鎌倉ハムの始祖英国人ウイリアム・カーテス氏を第一に推し、同会社の元祖故益田直義氏を挙げる。かくて相当の曲折を経てのち日本ハム株式会社、鎌倉ハム株式会社の時代を通って、現在普及する鎌倉ハムは生まれたのである。ハム以外の加工品も多少は此の中に含まれるが、一般豚肉加工として学術的に斯業に貢献されたのは、飯田吉英氏及び津野博士である。また少し趣を変へて日本人嗜好向きに料理法の研究が、田中博士に依ってなされた。実際方面に於いては、日露戦役後横浜山下町に独乙系一露人ヤコブ・ベルテ氏が家庭的に豚肉加工を始めて、外人に販売したのがかぶら矢という。大正の大震災までこの店は継続して居たが、余り上等品は出来なかった。
その後、明治43年ドイツ人エム・ヘルツ氏が船員生活を棄てて、横浜居留地に極めて小規模な店を開き、純ドイツ式製品を売り出し、震災にあって神戸に行き、今は帰国した。この間青島の戦でドイツ人捕虜の技術者を以て、資金2百万円を投じて大規模の計画を立てたが、業ならなかった故節引弓人氏がある。これと前後して岩崎輝彌農場でも幾分の研究と、試験があったと聞く。
大正9年頃には明治屋、東京牛乳会社等でドイツ人捕虜を雇い製造を開始し又、資生堂福原氏、風雲堂後藤氏その他数氏の合資組織で相当大規模のものが出来たが、全て震災を境にして結果面白くなかった。術者(大木)は明治45年、前記ドイツ人ヘルツ氏と親交を結び、斯業の必要なのを痛感し、それ以来密かに研究を積み大正3年第1回神奈川県畜産共進会(※2)に、参考品として数種出品した。これ恐らく日本人として共進会に「ソーセージ」出品の最初であろう。後8年第1回畜産工芸博覧会に当時私の奇寓する親戚高橋氏(※3)の名義で10数種出品して、宮内庁の御用命を得るに至った。
日本人として最初の「ハム・ソーセージ」専門店を東京市銀座尾張町4丁目に張ったのが術者(大木)で、間口4尺の特殊店はすこぶる行人を驚かし、小説に雑誌に度々掲載されたが需要者としては、少数の外人と洋行帰りの婦人くらいで、その後暫くの間博覧会等への出品は、単に珍しい物という観念にさらされ、十数万の欠損をくった。
現在は既に百数十名の同業者が出来て、各デパートを始め都会地での普及は甚だしくなっているが、そのほとんどが全てが捕虜ドイツ人か、或いは不肖術者(大木)の系統である。現今社会極めて不安定の時に際し、斯業益々発展して食肉経済を助けられたら、この上ない喜びと思うものである。」(引用以上)
※1 豚肉加工業界のこと
※2 当会の調査により第1回神奈川県畜産共進会の開かれたのは大正6年であったことが判明した。よってこの部分は誤りだと思わる。詳しくは参考文献紹介第10回を参照
※3 第7話の江戸清創業者、高橋清七氏のこと
以上が、市蔵氏による豚肉加工業の沿革です。ハムについてはすでに多くのサイトにて語りつくされている感があるので割愛させていただいて、第9話よりソーセージに焦点を絞って取り上げていきたいと思います。