参考文献紹介第9回「官と民の連携、豚肉加工品の普及へ」

参考文献紹介第9回は、昭和35年7月に日本食肉加工協会より出版された「日本食肉加工情報第125号」に掲載された飯田吉英氏の「豚と食肉加工の回想(24)」です。

第4回で紹介させていただいた通り、飯田吉英氏は農商務省の嘱託の技師で、日本に初めて本格的なソーセージの製法を伝えた方です。本書にて豚肉加工品の需要増進策として次のように回想されています。以下豚肉加工品に関する部分について要約してみます。

大正2年の初春の頃、吉英氏は農商務省道家農務局長から用談があるということで呼び出されます。道家農務局長は、吉英氏が神奈川県や関西九州方面の豚肉加工業を調査した報告書を見て、我が国のハム、ベーコン、ソーセージといった豚肉加工品の生産が非常に少ないことに驚いており、これを普及させるためにはどうしたものだろうか、またその方策を進めるために吉英氏の希望があれば聞かせて欲しいということでした。

吉英氏は次のように答えます。

「我が国において養豚業はまだ普及しておらず、頭数が少ないため豚肉の加工が発達していないのです。根本的には我が国の養豚業を普及させることが急務であると思います。養豚が普及して食肉の供給が円満となり、そこで加工業を奨励して、貯蔵豚肉製品の需要を増進せしむることが出来れば、動物蛋白の給源としては、豚が一番経済的に肉を生産するものでありますから、国策として養豚増産の奨励を起こすことが緊要と信じます。養豚業が盛んとなり加工の原料が豊富となれば加工業も従って隆盛に赴き国内の需要を満たして、余裕があればこれを国外に輸出することもできます。彼の丁抹(デンマーク)がベーコンを英国へ輸出して巨額の富を造っていることや、米国がハムを多量に欧州へ輸出して外貨を吸収しているように、我が国でも市場をアジア大陸及び南洋諸国に求めて外貨獲得の方策を講ずることが出来ると思います。これがためには手近の神奈川県のハム製造業者を本省に呼び寄せて、激励の御言葉をかけて頂けば良いがとも存じます。(中略)
次に私の希望ということは、少し先走った意見かとも考えますが、率直なことを申し上げますれば、私は米国の大学で畜産学を専攻いたし、論文の実地試験を大学の農業試験場で実施致しました経験から、米国の大学には試験場というものが付属していて、大学の教授は試験場技師を兼任して、自分の研究を試験場で実験していることを知り、我が国でもこんな組織にすれば実力ある学問ができると覚りました。そこで考えたことは現在我が国には種畜場があって種畜の蕃殖(はんしょく)供給を図っているが、この仕事は民間の事業に移しても出来ることだから、種畜場はこれを改造して民間で出来ない諸問題の試験研究をする場所とするのが良いと考えます。これがやがて我が国畜産発展の一大要因となるかと存じますが如何なものでしょうか。」

吉英氏の提案に対し、道家農務局長は、

「よくわかりました。差し当たり加工業者を本省へ集めることは、早急に手続き致します。又海外市場の調査のことは商工局とも相談して直ちに実行させます。畜産試験の件も時勢の進むに従って必要に迫られることもあると思われます。」と結びます。

吉英氏は持参した著書「豚」と「豚肉加工法」を呈上します。道家農務局長はこれを受け取るやいなや恭々しく眼の上高く上げ「ありがとうございます。よく拝見します。」と受け取られたそうです。

その態度の鄭重謹厳(ていちょうきんげん)なことに、吉英氏は、この熱意と真剣味のある局長にして始めて我が国の畜産界も一新されるだろうと感じました。

そして数日後、農務局に豚肉加工業者が集められます。顔ぶれは、神奈川県鎌倉郡川上村の斉藤満太、岡部福蔵、同郡玉縄村の冨岡周蔵、小串清一(いずれも鎌倉ハム)、横浜の高橋清七(江戸清)の5名、当局からは道家農務局長、吉英氏の他2名が出席しました。

冒頭、道家農務局長より、デンマークにおける加工業の説明があり、我が国でも豚肉をハム、ベーコンといった耐久性のある加工品とし販売することになれば、努力次第で販路を海外に求むることは容易であると思われること。養豚と豚肉加工業の奨励と製品販路の拡張ということについては、当局に於いても十分考慮している状況であり、実際に斯業の発展に努力している食肉加工業者の方たちには、当局の意あるところを酌み取りの上、さらなる奮闘を願いたい旨の挨拶があり吉英氏に引き継がれます。

吉英氏は、アメリカイリノイ州立大学での経験、海外での食肉加工業のこと、明治43年、豚肉加工講習会を行い全国の道府県の技術者や農学校教師を集め冷蔵庫応用の加工技術やハム・ソーセージの製法を伝えたことを述べ、さらに次のように続けます。

「ハムやソーセージを造る食肉加工場は、家畜を家畜市場から買い入れて屠殺し、これを解体した後加工して各種の加工品とする迄一切の製造工程を経て製品を国内外の肉市場へ移輸出を行うもので、非常な繁多な業務であり、又莫大な資金を要する工業であります。従ってこの工業を起こすことは資本主があって経営者と技術者と、労働者の四者が一体となって結合しなければできないので、この四者の連絡運営が円滑にいかなければ会社は終わるのです。(中略)

現在我が国の豚肉加工(主としてハム製造)は生腿肉を買って加工して売るという簡単なものだが、これでは豚全体を完全に利用するということにはならないから、どうしても将来は相当の資本を以て豚の買入れ屠殺解体製造販売という一貫した組織に進歩させることが望ましいのであります。但しその規模の大小は家畜の生産と肉の需要如何によって異なるところがなければならないのであります。終わりに付け加えて申し上げたいことは、皆さんは加工原料の豊富なことを悦ばれるのは勿論でありますが、製品の販売については常に苦心されていることと存じます。特に海外市場へ製品を輸出されている方々は、その市場の状況を詳細に知ることを希望されていることと思いますが、先程局長さんがお述べになられたように、当局では今後養豚及び加工の奨励と製品販路の調査のことは早急に実施するとのことでありますから、皆さんもこの際一層加工事業のために御努力あらんことを熱望する次第でございます。」

この後、業者からの希望と質疑応答などがあり、融和した雰囲気で散会となったようです。

吉英氏の提案は早速農務局で取り上げられます。同年、商工局にて海外実業訓練生及び嘱託員により上海、香港、広東、満州、長春、海峡植民地、瓜哇島を対象とした豚肉加工品の海外調査が行われ、その報告書は「農務彙纂第46号東洋諸方面に於いて需要さるるバター及び豚肉加工品」として農商務省農務局より発行されます。

大正6年には千葉県千葉郡都村(現在の青葉の森公園)に農務省の畜産試験場が設置され、畜産と食肉加工について数々の研究が行われることになります。このスピード感は現在では考えられません。

現在、吉英氏の功績は大正7年に習志野捕虜収容所でマイスターであったカール・ヤーンからドイツ式ソーセージの製法を習ったことが大きく取り上げられていますが、この当時ハム・ソーセージは手工業品です。製法だけではなく、作る職人の技術と知識、材料となる豚肉の品質と量、需要に応える販路といったものが揃わなければ食肉加工業の発展はありません。この点を見事に言い当てたその見識と、農商務省にその提案を実践させてしまう信頼こそ称賛されるべきものであると思います。

江戸清社史によると、ハム・ソーセージの製造を始めたのは大正3年ですが(明治40年発行の京浜実業家名鑑ではすでに千葉ハムとしてハムの製造をしていた旨の記述もありますが)、もしかしたらこの会合がきっかけになったのかもしれません。大木市蔵氏もおそらくこのことを江戸清店主高橋清七氏から伝え聞き、ソーセージの研究にさらに熱が入ったのではないでしょうか?