大木公一氏 「祖父 大木市蔵の思い出」 |
この道が、私の進む道、生きる道、と何の迷いも無くひたすら進んでいった祖父、頑固で、全く信じたら疑わず、他人には優しく(家族には厳しかった)、また欲が無く、世(国・地域・業界)のためと思えば欲得なく(時には私財を投じて)尽くす人でした。
祖父、大木市蔵は、明治28年8月(戸籍上は翌年2月)に東陽村(現横芝光町)に生まれ
ました。尋常高等小学校卒業後、横浜山下町中華街の親類(精肉店江戸清)で働きます。
その後、自分の歩む道々で多才な著名人とも親交を持ったようです。少しだけ私が関わった人物の事をお話します。
有馬頼寧、(旧久留米藩主伯爵)直木賞作家有馬頼義の父ですが、今日では競馬の有馬記念の方が知られてますね。この有馬家(東京荻窪)に私は正月の餅を届けてた思い出があります。とにかく重くて、片道3時間、大変でした。何故、毎年餅を届けるのか母に聞くと、戦前「おじいちゃんは有馬さんの弟子だったからよ」と言われたことを思い出します。農民運動、他諸々、祖父の信念と正に同じだったのでしょう。
もう一人忘れてはならない人物、賀川豊彦(キリスト教伝道家、作家)。賀川の福音学校の生徒であった父(旧姓持田)大木堯公が居て私が生まれた訳ですから(母、大木市蔵の次女洗子と出会う)。この賀川の社会運動と農民互助の思想に感銘を受け、祖父は福音学校の手助けをしていたようです。
私が幼い頃から、祖父は家に居ることが少なかったと記憶します。70の歳を過ぎても方々から依頼を受け出掛けていました。帰ってくるときは珍しいお土産が楽しみで、とりわけ沖縄は、当時アメリカの支配下だったこともあり待ち遠しかったです。私の虫歯の原因はその頃のハーシーのキスチョコを食べ過ぎたかもしれません。
また、ホテルオークラでの叙勲祝賀会の祖父の姿は忘れられません。業界に残した数々の功績と祖父を取り巻いていた方々の肩書を目の当たりにし、ただビックリするばかりでした。そして祝賀会での祖父の謙虚な姿に、涙してしまいました。
私は還暦を過ぎた歳になっても、この道か、あの道かと、未だ迷っているところがある人間です。あと残っている有限な時を、未来に向けて少しでも、祖父大木市蔵の『信念の魂 』を受け継ぎ、自らの望む姿を描きつつ、残りの人生を有意義に全うしていきたいと思います。
高坂和久氏 「食肉加工業界最大の功労者」 |
「大木市蔵は、明治29年、千葉県の農村に生まれ、同43年横浜の親戚に身を寄せ、食肉業の修行していたが、たまたま、ドイツ人マーテン・ヘルツと知り合い、彼からドイツ式の食肉加工法を学んだ。(中略)
マーテン・ヘルツは船の司厨長で、横浜で酔いつぶれ船が出港し取り残され、第一次世界M大戦が終わってから後で、母国に帰ったといわれている。
この大戦では、日独は交戦国となり、ヘルツは収容所へ入らなければならないところを大木市蔵の尽力により、最小規模の食肉加工業を知事より許可され、大変恩義を感じた。
第二次世界大戦では、大木市蔵は中国、南洋諸島にハム・ソーセージ工場を設立、活躍したが、戦後は故郷に帰り、農協組合長、村議会議長などの重責を果たしながら、大木ハム千葉工場を建て(昭和21年)、後進の育成に努めた。
この工場は採算を度外視し、いわば食肉学校の感が強く、一人前に育てては必要とする企業に送ることのみを目的としていた。この方針は戦前からあり、戦前、戦後を通じて、斯界で活躍した弟子の数は大変なものである。同時に技術上のアドバイスを受けた企業の数も多々ある。
こうして4つの技術の流れを見ると、いずれもわが国の食肉加工に対して、大きな影響力を与えたことが判るが、やはり、最大の影響力があったのは大木市蔵であったように思えてならない。
さらに付言すれば、大木市蔵は(社)日本食肉加工協会の理事を長年にわたって勤めると共に、規格運営委員長も勤められ、ハム、ベーコン、ソーセージの日本農林規格(JAS)の制定、運営に尽力され、業界全体の発展にも多大の貢献をされた。このような活躍は他の3つの流れ(鎌倉ハムの技術、畜産試験場の技術、ドイツ人による技術)には無く、この功績も見逃せない。」
(出典 ハム・ソーセージ入門 高坂和久著 ㈱日本食糧新聞社 1993)
【高坂和久氏略歴】
1927.1 横浜に生まれる。’50.3 東京農業大学農学部農芸化学科卒業。’50.7 兵庫県開拓協会嘱託。’51.3 兵庫県農業試験場技師。’63.11 同上、農産加工科長。’64.4 (社)日本食肉加工協会・検査課長。’75.1 東北大学農学博士。’86.5 相模ハム㈱技術顧問。’86.8 不二精油㈱顧問。’87.2 相模ハム㈱取締役・商品開発部長。’90.4 青葉化成㈱・技術顧問 現在に至る。
高坂和久氏 「1頭の豚から作ったハム・ソーセージで1ヵ月の旅」 |
「昭和40年代の半ば頃、故大木市蔵先生と仙台へ講演に行く時の車中での先生の話である。大正から昭和初期、1頭の豚から、ロースハム、ベーコン、ソーセージなどを作り、リュックサックに入れて、関東から東北にかけて、食肉専門店に卸して歩くと、全部売るのに約1ヵ月かかったという。それでも、その間の宿泊費、交通費を払ってなお余ったという。その位、当時のハム、ソーセージは高価な食品で、今のように豚肉とあまり変わらないような価格ではなく、およそ豚肉の3倍以上の価格であった。
もちろん、当時は、年間生産量が1,000t位で、国民1人当たり、年間15g位の消費量であるから、ウィンナーソーセージ1本程度の僅かなものであった。
それにしても冷蔵庫も持たず、保存料も無く、背負って1ヵ月保つハムやソーセージが作らていたことは、考えさせられるものがある。」
(出典 ハム・ソーセージ入門 高坂和久著 ㈱日本食糧新聞社 1993)
飯田吉英氏による大木式ソーセージの評価 |
「大正の末期、銀座の真中本通り一番館という処へ、ハムやソーセージなどの販売店を開いたのは大木市造(原文ママ)氏である。大体まだまだ需要の少ない加工品を、大繁華街の大店と軒を並べて商売を始めたのだから、その大胆さには皆驚いて、うまく売れて繁昌してくれれば良いがと念願していた。銀座では亀屋が内外の加工品を扱って大繁盛していたが、大木氏の店は自分で作った品を並べて置くだけだから、見栄えはなかったが、外国人でなく日本人が作って売っているというので人目を引いた。心ある誰でも感激したものである。大木氏は東京に於ける全国畜産博覧会へは売店を出して、白衣を着てハムやソーセージを売っていたことは、博覧会を見物した数十万の人々はよく覚えているに違いない。大木氏の製品特にソーセージが、抜群の優等品であるのは何人も認めている所で、その審査の主任であった私は、いつも優等賞をつけたが、産額が少ないという理由で、博覧会としては等位で、1等になることは出来なかったが、品質の上等であることは定評であった。(現在でも大木氏ほどの技術者は、全国中を探してもなかろうかと思う。)」
(出典 日本食肉加工情報第160号 1963「豚と食肉加工の回想(59))
青年団長 市蔵さん |
市蔵氏は横浜元町で青年団の団長も務めていたようです。その活動のひとコマをご紹介します。
「このころ(昭和10年)、町の青年団団長は大木市蔵だった。大木のもとで1丁目の山﨑幸三郎、藤川久造、5丁目の坪先二朗らが中心となって、青年団活動をしていた。青年団には音楽部もあって、秋山晴海、桂川美津夫、山崎武雄、山本一衛らが参加、夜集まってはみんなでトランペットやトロンボーン、クラリネットなどの楽器を持ち寄って練習に励み、町でのイベントがあればそれを持って参加した。
特に、出征兵士を送る際には、行列の先頭に立って元町を出発。亀の橋から伊勢佐木町を通って馬車道経由桜木町駅まで「君が代行進曲」「軍艦マーチ」「市歌」「爆弾三勇士」など絶え間なく演奏しつづけて先導した。
青年団長の大木市蔵は面倒見のいい人だった。町から出征兵士が出るときには、戦勝祈願にといって兵士となる青年を伊勢神宮や奈良の橿原神宮に連れていったりした。」
(出典 ペリー来航 横浜元町140年史 元町の歴史編纂委員会編著 元町自治運営会 横浜元町資料館2002)
元町「石川屋」とドイツ人技師ラングマンさん |
横浜元町5丁目に、おでん・酒の小料理屋を営んでいる石川屋さんというお店があります。「中区わが街ー中区地区沿革外史」によると、大正時代は酒屋を営んでいて外国人にビールを売って大変にぎわっていたようです。ここでは大木ハムと合わせて石川屋さんを紹介させていただきます。
「石川屋が外国人に酒を飲ませるようになったそもそものきっかけは、入港後元町にてさんざん遊んだ外国人が帰り道である石川屋の前を通ると、ビール等が並んでいる。それで一杯やりに寄るようになった。ところが普通の酒屋だから酒を飲むようには出来ていない。店先でコップを片手に、ビール瓶を手に立って飲んでいるので気の毒に思い、テーブルを置いたが、次には立っているのもなんだからと思って今度は椅子を出した。そうするうちに、これが商売として成り立つことがわかりバーのはしりになったといいます。
その頃、日本鋼管に技術指導に来ていたドイツ人のラングマンさんが、水曜には川崎から横浜まで電車で来てはウチキさんでフランスパン、大木さんでハムと肉を買いに来るんですが、石川屋でビールを飲んでいる間に、我々を使いにやってこれらを買わせました」
(出典中区わが街ー中区地区沿革外史 〝中区わが町“刊行委員会 横浜市中区役所 1981)
石川屋さんも有名店ですが、大木ハムもわざわざ川崎からドイツ人が買いに来るほどの有名店だったことが伺いしれる一節です。
ハムの語源は中国から? |
大木市蔵氏によるとハムの語源中国からきたと考えられているようです。以下原文のまま転載します。
「ハム(Ham)は英語で世界的に通用しているが、その語源は中国語から転訛(てんか)したものではないかと思わるふしがある。中国語で鹹肉(ハンロウまたはハンヨ)はすなわち塩肉の意味である。この鹹(ハン)は鹹菜(ハンツァイ)、鹹魚(ハンユウ)などと用いられるが、それらのものを見て単に鹹(ハン)と呼ぶこともある。
日本では塩引きのサケを単に塩引きと呼ぶようなものである。そして塩引きといえば、そのものを見なくてもサケのことだなと思えるように、中国では鹹(ハン)といえば鹹肉(ハンロウ)をさすのが普通である。
欧米人はハンをハム(Ham)と訛って用いたのではないであろうか。それゆえ筆者は、Hamの発生地は中国であると考える。」
(出典 食肉加工シリーズ 第3肉製品 食肉加工シリーズ編集委員会編 光琳書院1963)
ハムの発祥も中国から? |
先の「ハムの語源は中国から?」に引き続きです。以下原文のまま記載します。
「豚は元来、中国人と密接なつながりがある。おそらく昔から一家にはかならず何頭かの豚が飼育されていたに違いない。漢字の「家」という字はウ冠に豕(ブタ)と書く。これは少なくとも豚1頭がいなくては人間の住む家にならないことを表していると想像できる。もっとも現今では中国人は豚を表すのに豕という字を書かず猪を用い、「チイ」または「ツウ」と発音している。
このように豚は中国の家畜としてきわめて普遍的であったうえに、岩塩が豊富であることから、ハムは自然発生的に中国でつくられるようになったのではないであろうか。
中国のある地方へ行くと井戸から塩水をくみ上げている。食べ残りの豚肉をその中につけて保存しているうち、また新しい肉ができ、容器にはいらないまま、古いものを取り出して厨房の上につるしておいた。これを食物のないときに思い出して食べてみたら風味のある肉になっていたというようなことさえ考えてみると、現在の中国のハム(火腿・ホータイ)の成立がほぼ想像できる。
一方、中国大陸の古代文明は中央アジアをへてヨーロッパに流れ、それぞれの国の特有な気候風土と生活の様式に密接しつつ発展していった。このようななかで火腿から肉付きがよく皮の薄い、骨の細い、イギリス、ドイツ、フランスなどで生産される現在のようなハムがつくり出されていったと考えても不自然ではあるまい。」
(出典 食肉加工シリーズ 第3肉製品 食肉加工シリーズ編集委員会編 光琳書院1963)
満蒙開拓団の若者 |
平成26年8月28日(水)NHKの番組おはよう日本の中で「戦争の愚かさ伝える満蒙開拓団を描いた映画」として『望郷の鐘 ~満蒙開拓の悲劇~』がとりあげられました。
出演は内藤剛志さん、渡辺梓さん、星奈優里さん、山口馬木也さん、勝又さゆりさん他で、現在(平成27年4月1日)各地で上映中です。
満蒙開拓団とは、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称であり。1932年から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住したようです。
この事業の後年(昭和13年~昭和20年の敗戦まで間)には8万6,000人の青少年が満蒙開拓青少年義勇軍として、満州の開拓と警備を目的として移民したしましたが、約2万人の方が命を落としたそうです。
この満蒙開拓青少年義勇軍は、茨城県友部町にあつた日本国民高等学校(現在水戸市にある日本農業実践学園)で訓練を受け満州に渡りましたが、実は大木市蔵氏が執筆した「実用豚肉加工法」はこの学校で教本として使われていたのでした。
この本を古書店で買う時に、店主の方から「これは満蒙開拓青少年義勇軍が現地での食料調達の勉強のために使った本だよ。」と言われました。
「えっ、それってどういうことですか?」と聞くと、
「ここに所有者の名前が書いてあるだろう、義勇軍は日本国民高等学校で訓練を受けてから満州に渡ったんだ。義勇軍はこの本を満州にも持って行ってたんじゃないかな?」と教えられました。
この方はその後どういう人生を送られたのか・・・。
(訳あって、名前が記入されていた本は現在手元にありませんが、写真を撮っておいたので載せさせてもらいます。)
恒久の平和を祈願いたしまして、こちらの記事を掲載させていただきます。