参考文献紹介第13回「日本にソーセージを伝えたドイツ人捕虜たち」

参考文献紹介第13回は、ソーセージの技術を伝えたドイツ人捕虜たちに取り上げてみたいと思います。

大木市蔵氏の著書「実用豚肉加工法」の「明治43年ドイツ人エム・ヘルツ氏が船員生活を棄てて、横浜居留地に極めて小規模な店を開き、純ドイツ式製品を売り出し、震災にあって神戸に行き、今は帰国した。この間青島の戦でドイツ人捕虜の技術者を以て、資金2百万円を投じて大規模の計画を立てたが、業ならなかった故節引弓人氏がある。これと前後して岩崎輝彌農場でも幾分の研究と、試験があったと聞く。大正9年頃には明治屋、東京牛乳会社等でドイツ人捕虜を雇い製造を開始し又、資生堂福原氏、風雲堂後藤氏その他数氏の合資組織で相当大規模のものが出来たが、全て震災を境にして結果面白くなかった(上手くいかなかったの意)」の部分です。

主なドイツ人技術者は次の通りです。

●アウグスト・ローマイヤー(ロースハムの考案者)
第1次世界大戦、青島の戦いで捕虜となり久留米の捕虜収容所に収容される。大正9年解放となり東京帝国ホテルに就職。大正10年資生堂福原社長、神田の医学機輸入商後藤風雲堂西村社長、日本橋のシュミット商会、日比谷の一色活版所の社長の出資により独立、東京南品川に三つ木に「合資会社ローマイヤー・ソーセージ製作所」として工場を設けハム・ソーセージの製造販売を始める。大正12年関東大震災時に製品を近隣の被災者に配ったことを出資者に咎められ退職、東京南品川5丁目に小さな工場を構えて再出発した。
なおこの工場で修行をした、大多摩ハム創業者小林栄次氏、八木下ハムの創業者八木下俊三氏などが、後の日本の食肉加工業界で活躍することになる。
(参考 ロースハムの誕生 アウグスト・ローマイヤー物語 シュミット村木真寿美著 論創社2009年)

●カール・ヤーン
第1次世界大戦、青島の戦いで捕虜となり習志野の捕虜収容所に収容される。大正7年習志野捕虜収容所においてドイツ式ソーセージの製法を伝える。大正8年東京牛乳㈱に雇用されソーセージ製造作業に携わる。

●ヘルマン・ウォシュルケ、バン・ホーテン
大正11年、明治屋が明治食料㈱を設立し雇用、ハム、ソーセージの製造作業に携わる。ヘルマン・ウォシュルケは震災後ローマイヤーの工場に勤務した。

●カール・ブッチングハウス
大正8年、東京ハム製造株式会社に雇用され、東京市麹町有楽町1丁目櫛引事務所にてハム、ソーセージの製造作業に携わる。震災後はローマイヤーの工場に勤務した。

●カール・レーモン
大正8年、東洋罐詰㈱をバックとする東洋製罐にて雇用されハム、ソーセージの製造を始める。製品は素晴らしいものができたが、販路に窮して会社はレーモンを解雇してしまう。レーモンは一旦帰国後大正13年函館で開業する。

以上より、市蔵氏の記述は見事に合っているようですね。なお昭和36年、日本食肉加工協会発行の「日本食肉加工情報第160号、豚と食肉加工の回想(59)で飯田吉英氏は次のように書き綴っています。

「この技術者(大木市蔵)を見込んで一旗あげさせようと目論んだのが大野義晴君であった。大野君は鹿児島の生まれで、東大の法科を出た学士だが、官庁の役人や会社の社員になることは好まないで、自ら会社を成立させることに興味を持って頻(しきり)に種々の畜産方面の計画を建てて奔走していた。大木氏の店にも絶えず出入りして会社の成立を相談していたようであった。
青島戦の捕虜であったヤン(カール・ヤーン)は、神田三崎町で独乙ソーセージの製造販売をしており、横浜の山下町ではヘルツ(市蔵の師マーテン・ヘルツ)が独乙ソーセージを造っていた。当時ローマイヤーはまだ店を持つことが出来ないので、東京の場末で製造した加工品を売り歩いていた。その工場を大野君と共に見たが、極めて小規模で作っていたが、その技術は確かなものであった。大野君はこのローマイヤーの技術を取入れて、会社を作ろうと奔走していた。大野君は私の所へたびたびやって来てローマイヤーの会社へ入って社長になってくれなどと勧誘されたが、その話には乗らない。このことで大木君も大野君と共に来宅したことがある。」

飯田吉英氏の回想は市蔵氏が銀座にハム・ソーセージ専門店を開業した当時のことですから、大正13~14年頃のことだと思われます。市蔵氏の関与がどのくらいあったかは不明ですが、ローマイヤーは大正14年、東京銀座並木通りの対鶴ビルに直売店を出し、その地下にレストランを開きました。平成3年レストランローマイヤはビルの改装のため日本橋に移転、現在も営業中です。

なお、ローマイヤーについては前述のシュミット村木真寿美さんの著書「ロースハムの誕生 アウグスト・ローマイヤー物語」に詳しく記載されています。心温まる逸話もありお薦めです。